2015年5月16日土曜日

米山和子の「つむぐけしき」

米山和子・祖父江加代子 「つむぐけしき よむこころ」
2014年10月18日~12月14日
古川美術館分館為三郎記念館


 名古屋市内の幹線沿いから少し奥に入ったところにある、古川美術館の分館為三郎記念館は、実業家で美術コレクターの故・古川為三郎氏が、晩年を過ごした邸宅を美術館の分館として公開したものです。椎の木が繁る庭園に囲まれた、築80年になる数寄屋造りの「爲春亭(いしゅんてい)」では、米山和子と祖父江加代子の《つむぐけしきよむこころ》展が、お客様の為の憩いの場を作ります。
中庭を望む「間想の間」では、米山さんの手漉き和紙による白い女性立像作品「いろはなく」が、赤い壁と対比を成してたたずみます。肩から胸にかけては、和紙を水で解いてから再び固めた羅(うすもの)にして、柔らかな肌を思わせる曲面に仕上げ、左の肩紐から足元までのドレス部分は、しっかりした和紙で女性像を自立させます。頭や腕がない事で生々しさが消えた像は、一層、和紙の清楚な白さを際立たせ、和室を静寂な空間へと変えています。
「爲春亭」の中の茶室「太郎庵」には、地面にたまった水の流れを表現した作品「にわたづみ」があります。雪見障子からの眺めには見えてきませんが、庭の奥に小さな滝があり、そこからの流れが、太郎庵の近くまで届きます。米山さんは、その流れを部屋いっぱいに表現しました。床の間の掛軸から、湧き出る様に流れる小さな滝、そこから広がる滑らかな流れや波打つ水の表面を和紙で形づくり、まるで、庭にある水の流れを部屋の中に持ち込んだかの様です。
手漉き和紙は、原料となる楮(こうぞ)の皮を剥ぎ、蒸して、乾燥させ、それを煮て漉く、等の多くの工程を経て作られます。米山さんは、そうした工程を遡り、一旦水に着けて繊維の絡みを解いた後、新たな立体造形へと変容させます。どちらの作品も、非常に薄い和紙にもかかわらずボリュームが感じられます。和紙という素材にこだわり、その特性を知り尽くした作品作りが、米山さんの持味です。
素材という点で異なる作品が、「こめのゆめ」です。爲春亭の中では最も庭の眺めの良い「大桐の間」を使った作品の素材は、私たちが毎日食べているご飯粒で、それを絹糸に通し乾燥させますと、白く半透明になり、淡く光を反射する粒の連なりになります。二間続きの部屋の一方の床の間から、反対側の部屋の天井までを結んだ数十本のご飯粒の糸は、白い光の粒が織りなす曲線となって空間を満たします。部屋の間に、山並みを形どった欄間があり、床の間を起点とし反対側の天井へとのびるこめの糸は、谷合をながれる風を見ている様です。この作品の面白さは、ご飯粒の重さで絹糸が描く懸垂線の吊り橋のようなダイナミックさと安定感、そして白い光の粒の連なりの美しさだけではありません。毎日の食事時に見る小さなご飯粒が、空間を全く別のものに変えてしまう事に目を奪われるのでしょう。
米山さんは、「素材に心を添わせ耳をすますこと」が大事だと言います。日本人が愛してやまない手漉き和紙、お米という素材の特性を熟知し、それを活かした心象風景の表現が、見る人の共感を呼ぶのです。
「爲春亭」の玄関の上り框のところに、厚い松板が2枚寝かせてあります。これは、和紙を漉いた後、この上に広げて乾かす為の「紙板」で、300年程使い続けられていたものだそうです。楮の繊維が浸み込み、うっすらと白ずんだ表面に、紙を切り抜いて作られた和歌が、貼り付けられています。
あしひきの 山あいにふれる しらゆきは すれる衣の ここちこそすれ
となりの紙板には、中央を絹糸で持ち上げられた横長の和紙が張り付いており、この歌から感じた景色を、形で表現しているようでもあり、板から紙を剥がす仕草のようでもあります。米山さんの和紙に対する愛着が感じられる一品です。


2014年12月22日月曜日

春の祭典 F/T

白神ももこ(演出・振付)×毛利悠子(美術)×宮内康乃(音楽) 《春の祭典》
2014年11月12日
東京芸術劇場プレイハウス
フェスティバル/トーキョー


 《春の祭典》は、ロシア人音楽家のストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽である。振付家の中には「いつかこの作品に挑みたい」と目標の一つに掲げている者も少なくないだろう。人間が古代から行っている祭や儀礼、神との関係をよきものとするため捧げられるいけにえ。そのためのいけにえ選びなど社会の仕組みをあぶり出すような物語性や、人間が何処から来たのかを探るような神秘性が、創作する者や鑑賞する者を魅了しているのだろう。やりたい作品を自由にできるわけではない現代の舞台芸術の創作環境の中で、タイミング良くこの作品に挑む機会を与えられるというのは名誉だと言えるかもしれない。しかし、これまでに発表されてきた偉大な人物たちの振付と否応なく比較されるのだから、彼らはさながらいけにえになったような気分を味わっているのではないだろうかと、このお節介な鑑賞者は想像するのである。
 今回の“春祭”は近未来の日本を想定して創られていた。毛利悠子の舞台美術は、実際に高速道路で使用されていた大きな電灯が何本か斜めに置かれており、破壊されたのか退廃したのか、終末的な印象を与える。「開演します」のアナウンスのあと、客席のあちこちからダンサーが発する動物の鳴き声が聞こえてくる。開演すれば消されるはずの客席照明はそのまま、通常体験する開演とは逆に舞台上の照明が落ちる。闇に没するはずだった自分の姿が照らされたままで、得体のしれない動物たちに見られているというちょっと不安感に襲われる。荒廃した街を自然界の者たちが取り戻しにきたのだろうか。やがて《春の祭典》が流れ出すのだが、荘厳な音楽とは裏腹に、登場する踊り手は街で見かける高校生のような着崩したブレザー姿。ビニル製のチープな花で埋め尽くされた花笠を頭につけ、まるで外国人が抱く間違った日本のイメージを具現化したようである。しかしそれは外国人からの目線ではなく、今ある「伝統の祭り」は、千年後の日本人からみてもこのように映る可能性があることに気づかされる。中盤には、桃太郎の話を学芸会のように披露する場面があるが、ひょっとすると農村舞台などで村人によって演じられる演目もこんなふうになっているのかもしれない。時間の流れに対する恐ろしさを感じた。
 全体を通して従来の《春の祭典》から想像するような踊りによって神仏をあがめる儀礼的要素や集団における意思決定の不気味さ、肉体を捧げるという残酷さを大々的に打ち出すという演出ではなかった。それは逆に、現代の日本における人間関係の希薄さにおいてリアルであったように思う。“今”を定点として近未来の祭典といけにえを想像したという点において、「2014年の振付家は《春の祭典》についてこのように取り組んだ」という足跡をつけたのではないだろうか。



egg:やすい友美

2014年12月21日日曜日

森下真樹×束芋 《錆からでた実》

森下真樹×束芋 《錆からでた実》
2014年11月8,9日
京都芸術劇場 春秋座


 
 森下真樹(舞踏家)と束芋(現代美術家)のコラボによる、コンテンポラリーダンス作品《錆からでた実》の公演が、京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場・春秋座で行われた。振付は森下、舞台美術は束芋、構想はふたりで行い、ダンサーは、きたまり、川村美紀子と森下の3名だ。初演は、昨年、東京の青山円形劇場だが、舞台構造がかなり異なっていたので、今回に向けて若干の作品修正もあったようだ。
 森下は、これまで映像を作品の中に取り込んだ事はなかったが、束芋とは、年齢や家族構成(3姉妹)等が同じことから交流が始まり、映像を入れた舞台に挑戦するに至った。束芋も振付家とのコラボは2回経験しているものの、従来作品のアレンジに留まっており、構想からつくり始めるのは今回が初めてだ。また、ダンサーの2人は、共にコレオグラフィーや横浜ダンスコレクション等の受賞者というこの個性派集団。森下はどの様にまとめ上げるのか。《錆からでた実》は、全てがチャレンジなのだ。
 公演の開始早々、カーテンが上がり始めると、3人のダンサーの足だけが見える高さで止まる。足だけを見せるダンスが始まる。しかしカーテンの上には、ダンサーの上半身に見える映像が映し出されており、本当の人影であるかの様に足元と連動した動きを見せる。後半部分でも、映像が映った背景の後ろにダンサーが入ると、その映像の中に人影が映し出され、まるで人が動き回っている様に見える。この様に映像が、ダンスと密接な関係で制作されているのは、あまり例が無いと言ってもいいだろう。
 映像は、通常、ダンスを引き立たせる役目になるが、束芋の場合、ひとつの作品として成立する程の強烈な個性と完成度を持っている為に、ダンスそれ自体を飲み込んでしまう危険性も孕んでいる。舞台を見ていると、激しく踊るダンサーに目が釘づけになっていたり、鮮やかな映像に目を奪われたりと、ダンスと映像の間を視線が行きつ戻りつしているのに気づく。だが、3人のダンサーのパワー溢れる動きの前では、心配は無用であった。むしろ、束芋の映像の持つ存在感が、ダンスと激しくぶつかり合う事で、作品全体の熱気を倍増させる事になった。
ダンサー3人は、まるで3姉妹だ。3人の群舞を見ていると、長女(森下)の振付で、要領良しの次女(きたまり)とやんちゃな三女(川村)をうまくまとめ上げている様に見える。この長女なしでは、これだけ個性の強い人の集りを制御できないのではと思わせる。ダンスは、群舞とソロの両方が演じられ、ソロの時は、それぞれのダンサーにかなり自由度が与えられていた様だ。川村などは、いつもの激しい動きが戻り、舞台狭しとばかりにパフォーマンスを見せつける。遂には、舞台下の観客席前のスペースで踊り出すほどで、殆ど暴走と表現してもよいかもしれない。しかし、これも森下の振付の想定内の事なのだろう。計算された動きの群舞と自由奔放なソロが、対比をなして、重層的なパフォーマンスとなっている。
 この作品のタイトル《錆からでた実》は、何やら奇妙な言い方だ。その意味するところは、「身から出た錆」の『錆より更にその先に、実がある』(苦しんだからこそ、その先に何かがある)という希望なのだそうだ。公演を見た限り、彼女達は確実に、いくつもの実りを収穫したと言える。




2014年12月18日木曜日

悪魔のしるし:演劇《わが父、ジャコメッティ》―虚と実のトポロジー―

劇団 悪魔のしるし:公演《わが父、ジャコメッティ》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月16日(木)
京都芸術センター講堂

 
劇場に入ると、既に3人の俳優がなにやら雑談している。観客がまだ入場中の場内はざわついているので、耳をそばだててもその小声は何を話しているのかはっきりと聞き取れない。だが、それはオーケストラの音合わせのような、期待感で胸が膨らむ時間でもある。じきに観客が全員着席し静まってくると、舞台上の柱時計が開演の午後8時を告げる。その瞬間、我々は現実の時間から演劇の時間へとするりと滑り込んだ。
 この導入部は、この劇が現実と地続きであることを暗示している。しかも舞台上では、3人の俳優がそれぞれ、登場人物と自分自身を同時に演じるという入れ子構造が展開される。主宰の危口統之は矢内原伊作を演じると同時に演劇人である自分自身も演じる。木口敬三はアルベルト・ジャコメッティを演じると同時に画家である自分自身も演じる。大谷ひかるはジャコメッティの妻を演じると同時にミュージカルの研究生である自分自身も演じる。おまけに、木口敬三と危口統之とは現実の親子でもある。
 劇のストーリーもジャコメッティと矢内原の筋立てと、現実の画家である父親と演劇人である息子の物語が交錯する。その上、舞台の造り込みにしても、ジャコメッティでもある木口敬三が油絵を画くと、その手元が舞台のスクリーンに映写されたり、俳優の台詞が同時に字幕としてスクリーンに映し出されたりする。それも、日本語と英語、日本語とフランス語が交互に投影される。
 このように虚実の二重構造が折り重なり錯綜すると、そもそも3人の俳優がセリフをしゃべっているのか、それとも単に自分自身として語っているだけなのか、見る方も混乱してくる。そうした本人性の揺らぎが危口のねらいなのだ。
 しかも、今回の演目はもし木口敬三が亡くなれば、このシナリオでの再演は厳密には不可能となる。そうした一回性もこの演劇の構造をさらに捻じれさせている。生身の俳優が一回性を生きながら、テクストという虚構を演じているわけだ。その両面がまるでメビウスの輪のように入れ替わりながら、しかも切れ間なく連続する舞台となっている。
 悪魔のしるしという劇団そのものが演劇の分野だけでなく、建築やファッションなど様々な分野にわたる専門家の集団である。彼らの代表作《搬入プロジェクト》は、何の役にも立たない巨大な物体を、それが入るか入らないかぎりぎりの入口から建物の中に運び込む。模型で入念に何度も確認した後、観客がお祭り騒ぎさながら見守る中、搬入する。いうなれば、このパフォーマンス自体が虚構の物体を現実という建物の中に、はみ出さないスレスレで押し込むという隠喩になっている。
 60年代後半から70年代初期のアングラ演劇において多用された構造、ラストシーンで一気に舞台と外界を地続きにする屋台崩しに対比すれば、《わが父、ジャコメッティ》は開幕冒頭から最後までずっとテントが開きっ放しになっている芝居だといえる。


 
egg:武藤 祐二

2014年12月16日火曜日

ルイス・ガレー振付《Mental Activity》―物体と関わる身振り。テクスト化する身体―

ルイス・ガレー:振付《Mental Activity》
京都国際舞台芸術祭2014
2014年10月11日(土)
京都芸術センター講堂



《Maneries》で洗練されたミニマムな身体表現を追求したルイス・ガレー。今回、《Mental Activity》では一転、粗暴なまでに生々しい舞台を提示した。
 暗い会場に入ると、ちょうど観客の目の高さからのライトに照らされて、舞台だけが浮かび上がっている。墨があちこち塗りたくられ、水もまき散らされており、それらが導線となって何かが起こりそうな不穏な予兆が漂う。
 すると突然、周囲の暗闇から舞台に投げ込まれる、ネックレスひとつ。それを合図に、ペットボトル、ボール、長靴、ハイヒール、自転車のサドル、土管、タイヤ、レンガ、岩、発泡スチロール、丸太等々、ありとあらゆる大量のガラクタが次々に投げ込まれる。たちまち舞台一面ガラクタで埋め尽くされ、足の踏み場もないゴミ捨て場と化す。こんな場所でダンサーは本当に踊れるのかと訝しく思えるほどだ。
 4人のダンサーが静かに登場する。一呼吸あって、ひとりのダンサーがガラクタの中を走り抜ける。次はふたりが肩を組んで、さらには3人が肩を組んで、その次は4人全員が肩を組んで倒れ込むように疾走する。怪我もせんばかりに、ガラクタの中を駆け抜ける。
 次に、女性ダンサーが手を使わず、頭を付けて丸太を押し動かす。そしてゆっくり丸太を立てる。そのあと、4人がそれぞれ、手当り次第にガラクタと戯れる。石を持ち上げ、レンガを投げ上げ、綱で縛ったコンクリートブロックを振り回し、土嚢を口でくわえ上げる。ブリキ缶をなめ、フェルトペンで腕に線を引く。綱を引き合う、長い木の枝の両端をふたりのダンサーが双方の頬だけで落ちないように支え合いながら静かに移動する等々、雑多でプリミティブな行為を繰り広げる。音楽は最初かすかな地響きのようなサウンドが徐々に大きくなるという単純なもの。そのことがかえって、観者をダンサーの動作だけに集中させている。

 素手のときのダンサーの身振りは言語以前のイメージにとどまる。それに対し、ピナ・バウシュのタンツテアターにしばしば見られるが、物体と関わって踊る身体はある種のテクスト性を帯びる。物質と身体が織りなす交点に意味が立ち上がる。ガレーは「精神の働きは極めて物質的」と語る。題名の《Mental Activity》を訳せば「精神活動」だ。ガラクタとダンサーがあたかも交信しているかのようにも、ガラクタを浄化する儀式とも解釈可能であり、肉体、精神、物質が三つ巴となって荒々しい相克の表情を見せる。それは取りも直さず人間の原初的な営みそのものであり、ガレーはその裸形を突き刺さんばかりに我々の眼前に投げ込んだのだ。