2014年10月22日水曜日

フランシス・ベーコン展―目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。

フランシス・ベーコン展-目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。
2013年6月8日~9月1日
豊田市美術館


 今回の展示のテーマは「身体をめぐる表現」。第一の会場<移りゆく身体>は、初期作品群の≪人物像習作≫(1945~1946)から始まる空間。全体が薄暗い照明を落とした中に、唯一鮮やかなオレンジの背景が浮き上がる。90度前かがみになった腰にツィードコートを掛け、頭の上にこうもり傘がのせてある人物。男性なのか女性なのか、首が不自然に曲がりこちらを向いて大きな口を開けている顔はとても人間とは思えない。何かの動物が吠えているかのよう。続いて、心霊現象を描いたと思えるどこまでも暗い色彩の作品が並ぶ。
 ≪肖像のための習作≫(1949年)も、ダークな背景の中にスーツを着た男の慟哭。白い檻のような、枠の中で座り叫んでいる。その他にも暗いトーンの背景に人物ないしは動物を描いた作品が多い。白い枠や線はこの世とあの世を分かつ標なのか。20世紀を走り抜けた画家、ベーコンはこれらの作品より以前(第二次大戦前)のものは自ら廃棄したのだという。彼は1909年、アイルランドのダブリンで生まれ、ロンドンを拠点として創作活動を行なった。アイルランドの独立戦争、二度の世界大戦を見てきた当時の彼の心には、徹底的に見る者に陰鬱さを与えるほど、孤独な「死の世界」があったのか。
 フランスの文学史家テーヌは「芸術の成立には、民族・環境・時代の三つの要素がある」と主張しているが、その三つのどれもがベーコンの紡ぎだす絵画に大きく反映されているようだ。彼の創作の基になったものを考えることで、ベーコン作品の一端を捉えてみたい。
 まず、彼自身が語っているように、彼の絵は創作活動に於いてきわめて意識的である。では、彼の言う、意識的とは何だろう。20世紀のイギリスに影響していた思想、ダーウィンの進化論、また、サルトルなどの実存主義哲学なども彼の絵画には投影されている。また、世界情勢はパワーとパワーのぶつかり合うリアリズムの只中にあった。凄惨な戦争も目の当たりにしてきた世代である。これらが「生と死」をイメージする孤独感、悪夢のような表現描写、さらには数々の男性の恋人たちとの遍歴により生み出された作品にも影を落としているのか。このような思想的な形成の他に、より直接的には様々な画家たちの影響も小さくない。たとえば教皇シリーズを生んだ、ベラスケス。穏やかな色彩、厚塗りのタッチの大作≪ファン・ゴッホの肖像のための習作≫を生み出した、ゴッホ。ベーコンは「ゴッホは俺にとって常に誰よりも重大な存在だ」と語ってもいる。また、身体表現の影響が大きいと言われる、ドガ。さらに同時代を生きた、ピカソなど。描く対象、構図、作法と多様な角度で作品に現れている。加えて、20世紀はテクノロジーの進歩の時代でもあり、映像技術、連続写真、X線写真、スポーツ写真なども彼の作品に投入されている。これらが彼の創作活動を重層的に支配していたことは明らかであろう。このように、ベーコンは思想的にも技巧的にもさまざまな要素を彼の言う「意識的」に取り入れて表現していたと考えられる。
 一方、意識的な試みと相反するが、彼には自身でも操作できなかったものがあったようだ。ベーコンは読書にも様々な影響を受けているが、その中でもプルーストが彼にもたらしたものは大きかったと言われている。プルーストは20世紀フランス文学の最高傑作、『失われた時を求めて』の中で、人間の内面の意識の流れを描いているが、「作者の自我というものは日常的な自我と同じものでなく、作品を書かしめるのは、深い自我、ほとんど神秘的でさえある隠された自我」と言い、作者の日常的な意識や理性的な計算の範囲を表現が超えることを述べている。また、彼はベーコンの幼少期と同じ持病の喘息の悪化により、ほぼ引きこもりの状態でこの大作を完成させた。これはベーコンが共感を持てた大きな理由のひとつであったであろう。こう見てくるとはからずもベーコンの表現は、このプルーストと共通した境地で無意識のうちに創作されたとも考えられる。実際、ベーコンの作品の中でも最高と評されるものは、どれも予想していなかったもの、「直観」がうまく働いているもの、いわば、無意識のうちに表れたものと言えるようだ。意識的な創作とその先にある、自我を超えて到達する無意識ということか。
 このように、ベーコンはその時代により作風も著しく変化しているが、自らの体験、読書を通しての意識の形成、様々な画家(絵画)から触発されたものを極めて戦略的に計算し、構成した意識的表現だと言える。また、その創作の中で、自己の意識を超えたある域での「無意識な、偶然」のもたらしたものが見る者をひきつける。彼の言う「意識的」を基に、ベーコンは様々な構図やモチーフを試作し続けることで「人間」を捉えることに挑んでいた。それが彼の「身体を通しての表現」なのか、時には暴力的に時には退廃的に時代を描き、見るものに今も熱く問い続けている


egg:三島郁子





0 件のコメント:

コメントを投稿